善きサマリア人のたとえ話

2019.07.15(5:48) カテゴリ:Essay

昨日は、主日のミサ。名古屋教区の松浦司教様が旭川5条教会を訪れ、ミサを司式してくださいました。

昨日のミサで読まれた福音書の箇所は「善きサマリア人のたとえ話」。追い剥ぎにあって傷つき、路上に倒れている人に対して、通りかかった祭司とレビ人はそのまま通りすぎ、旅をしていたサマリア人はこの傷ついた人を助けた、というお話。

松浦司教様は、この福音書の中での「隣人」に対する「問い」の変化を指摘した上で、「この箇所は『私にとっての隣人』ではなく『相手にとって自分が隣人であるかどうか』を示しているのです」とお話されて、ハッとしました。

この「善きサマリア人のたとえ話」の箇所は何度も読んでいるものの、聖書に込められた真意を理解するのには私一人では到底難しく、ミサの説教の中で、その真意を教えてくださることが非常にありがたいと思っています。

「良い話を聞いたな〜」とご機嫌で帰宅した私ですが、帰宅後、娘とおばあちゃんと一緒に美術館に行く予定だったので、その準備を済ませていよいよ出発!という段になった時「ピンポーン」とチャイムがなりました。娘の同級生のDくんが、ゲームを携えて遊びに来たのです。

ゲームで遊びたい娘は、「出発を1時間遅らせて欲しい!」と言い出し、美術館に行ったあと仕事の予定がある私は、突然の予定変更の申し出にムスッとなってしまいました。「美術館から帰ってきた後に改めてDくんと遊ぶ約束をしたらいいのに・・」と内心思っていた私とは対照的に、一緒に行くおばあちゃんは「(娘の)都合に合わせて出発はいつでもいいよ」と言ってくれました。

その瞬間、ついさっき聞いてきた「善きサマリア人のたとえ話」が脳裏に浮かびました。「私は娘の隣人なのだろうか・・。おばあちゃんと私のどちらが祭司やレビ人で、どちらがサマリア人なのだろうか・・」と。

ムスッとする場合の多くは自分自身に軸足を置いている時、自分自身に執着している時で、軸足を他者に置けばムスッとすることはあんまり無いと経験的に感じています。しかも、自分自身に執着している場合の多くは、それ自体が自分の錯覚、思い込みということが多いのです。

結果、娘は1時間Dくんと遊んで、それから美術館に行き、楽しい時間を過ごすことができました。

ミサで解説くださった箇所が、そのまま自分の生活の中に形を変えて出現した1日。自分の未熟さを痛感しつつも、福音書と実生活の間で私自身も少しは育まれるのかな?と思いました。