赦すこと

2020.03.17(11:18) カテゴリ:Essay

生きていると理不尽な出来事があります。

その理不尽な出来事、多くは言葉や行いによって深く傷つき、いつまでも苦しめられることがあります。他人から見たら些細な出来事であっても、本人にとっては大きな問題であることが多々あります。

私は小さい頃から人と良好な関係を築くのがとても苦手で、スタンドプレイしか出来ない人間でした。小学生まではそれでもよかったのですが、中学生になると上下関係や集団生活を強いられるので、自分自身を押し殺して周りに合わせるようになりましたが、それはとても辛いことでした。高校生になると、いろいろな要因が重なって身体に変調が出て不登校気味になり、精神病院にかかるようになりました。そして20歳に閉鎖病棟に入院して、退院後は3年間デイケアに通いました。

辛いこと、恥ずかしいこと、情けないこと、腹立たしいことのオンパレードの思春期でした。たくさんのことを諦めなくてはならなくて、それを受け入れるにも時間がかかりました。

デイケアに通っている時に絵を描き始め、幸運にもコンペで受賞したことを機に上京。アルバイトをしながら絵を描き、デザイナーに絵をみてもらったり展覧会をしました。

お金は全く無かったのですが、良い出会いもあり充実した東京生活でしたが、当時のイラストレーション界隈の人間関係がうまくいかず疲れ果ててましたし、イラストレーションの仕事が忙しく極度のストレスを感じていたことや、通院していた病院で処方薬を変えられたこともあって病気が再発してしまい、結果故郷に帰ることになりました。

東京時代の人間関係の辛い過去の記憶がなかなか癒えず、なんとか乗り越えようと努力はしてきたものの、苦しみはひきづったままでした。

聖書の中でイエス様は「赦すこと」を説いています。でも「赦すこと」は非常に難しいことです。ドン・ボスコは「赦すことは永遠に忘れること」と言ったそうですが、それがなかなか出来ないし、どうやったら赦せる(忘れる)のかが私にはわからなかったのです。

そんな私ですが、先日、夜なかなか寝られず、布団の中でモゾモゾしながら、過去出会った人たちのことを思い出しました。「あの人、元気にしているかな」とか「あんなこともあったな」とか、いろいろ思い出しましたが、過去の記憶を辿っていくと自分のしてしまった行為、人を傷つけたであろう行為などがいくつも突如脳裏に浮かんできて、赤くなるやら青くなるやらで、思わず布団をかぶってしまいました。

自分にふるわれた理不尽な言葉や行いに苦しむ被害者としての自分だけに目を向けていて、傷つけてしまったであろう加害者としての自分を見ていなかった自分。なんて恥ずかしいのでしょう。。

その時、「自分は赦されているから今生きているんだ!」と思えました。

私の言葉や行いに傷つき、不満や怒りを感じた人はきっと結構いるはずです。でもその人たちは「まあ、三井って奴はそういう奴だから、仕方ないな」とか言って赦してくれたんだと思うのです。

イエス様は「赦さなければ赦されない」と言っていたと思いますが(間違っていたらごめんなさい)、私自身がすでに人生の中で出会った多くの人たちに「赦されている」からこそ今生きているし、周囲の人たちに「赦されている」ことに気づけたら、私も人を「赦すこと」が出来る、と思えました。

私自身の勝手な解釈ですが、イエス様の「赦さなければ赦されない」の言葉の中には「赦されて生きていることに気づきなさい」、言葉を変えれば「周囲の愛情や優しさがあるからこそ、あなたが今生きているんだよ」というメッセージが込められているのかな、と思ったりしています。だからこそイエス様は「赦しなさい」と命じているのかも知れません。

スッと気持ちの整理がつく閃きがあった寝れない夜。

これからはスヤスヤ寝れそうです。

*本文中の聖書の解釈は私自身の勝手なものなので、正しい聖書解説は神父さまに聞いてください。